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2017 年 2 月 28 日

伊豆・下田 開港の歴史を訪ねて

もうすぐ明治150周年ということもあり、伊豆・下田に出かけて開国に影響を与えた“ペリーと日米和親条約”の足跡をたどってみた。

下田公園下の鼻黒にぺリー艦隊の乗組員が上陸したのは1854(安政元年)、ここから日米和親条約の交渉が始まり、3年後総領事パリスが着任、日米友好の礎がきずかれた。

ペリー上陸記念碑

公園内には1954(昭和29)に開港100年を記念した大きな「開国記念碑」が建てられている。この碑にはペリーとパリスのレリーフ像と二人が残した言葉「余は平和使節としてこの地に来れり」(ペリー)と「私の使命はあらゆる点で友好的なものであった」(パリス)が刻まれており、「開国記念の碑」の揮毫は吉田茂総理となっている。

開港記念の碑

下田公園からペリーロードに行く途中に「下岡蓮杖」の碑がある。この人は日本の写真師の開祖となった人で、領事館となった下田奉行所の足軽としてオランダ人通訳から写真技術を手ほどきされた。

下岡蓮杖

「日米下田条約」が締結された了仙寺を観て、街中に入ると「吉田松陰拘禁の跡」というものがある。松陰は海外事情を学びたい意欲が強く、鎖国の禁を犯し、密航を企てた。はじめは長崎でオランダ船への便乗を試みたが失敗し、次にここ下田でペリー艦隊の船に漕ぎつけて渡米を懇請したがペリーに拒否されてしまった。結局あきらめて自首し拘禁されたとのこと。

了仙寺

吉田松陰拘禁の跡

また「欠乏所跡」というのもある。これは入港してくる外国船に薪、水、食料、石炭などの欠乏品を供給したところ。当時、貿易は禁じられていたが、貝細工、染め物、瀬戸物、反物などが売られ、事実上の貿易が始まった。幕府は欠乏所の売り上げの3割を税として徴収したので、公には認めなかった貿易でちゃっかり利益を得ていたのだ。

欠乏所跡

下田をはじめとする伊豆南部は、噴火した海底火山や火山島によってできた大地とのこと。下田市の寝姿山と下田富士は、かつて火山の地下にあった「マグマの通り道」が地上に姿を現した「火山岩頸(火山の根)」という特徴的な山だそうだ。

寝姿山

下田駅の観光案内所で入手したガイドマップに従って歩いたが、アップダウンがほとんどなくとても歩きやすい街だった。また街中のいたるところにたくさんの“風車”が飾られていて、風に吹かれて回る様子が目を引く。下田開国博物館の売店で尋ねたところ、5月に行われる「黒船まつり」で毎年作られるもので、祭り終了後に各家庭に持ち帰り飾っているとのこと。また、マイマイ通りにあるお菓子屋さんで買った桜の花が入った一口ようかんがとてもおいしかったのだが、マイマイってかたつむり。どうしてこの名前がついたのか帰宅後に調べると「ペリー艦隊についてきた」とあった。かたつむりって江戸時代以前にはいなかったのだろうか。

文化情報サポーター T.S

Filed under: 未分類 — admin @ 11:58 AM
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