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第10回 意味からの開放

更新日時2011.10.04

今日本人にとっていちばん大切な文字のひとつである。文字が笑っている。過日、「有声の画・無声の詩」(2011.9.5-17 於:CCC the center for creative communications)と題された個展を観た。1996年に来日したスイス人デニーズ・バウムガルトナー氏(Denise Baumgartner 書家名: 汀州)の書展である。

「一瞬の呼吸で作品が完成する。絵画のように、何度も上塗りをすることもできないこの偶然性が書の魅力である」。このデニーズ氏の言葉を聞き、わたしは同時に陶藝の世界を思い浮かべた。あるイメージと思いを持って窯に預けられたカタチは、炎や灰などにより作者の意図しない風景をそこに創り出していく。そのあらかじめ計算のできない苛立ちこそが、逆に作者を未だ見ぬ風景へと連れ去っていく。ただ陶藝と書の圧倒的な違いは、時間の長さというものだ。前者は何十時間もかけて薪がくべられ、時間のムラのなかで形づくられ、もう一方はその場に張り詰めた眼に見えない要素の集合体により、刹那にそのカタチが決まってしまう。この時間の差異の対比である。

今回の個展のタイトルは「有声の画・無声の詩」である。デニーズ氏はこう語る。

「〈無声詩〉は絵に変身して、〈有声画〉は詩に変身します。〈書〉の形を見ればポエジーが絵を通して語り、〈書〉の意味を問えば絵がポエジーを語る。絵と詩の響き合いが私にとって〈書〉の一つの大きな魅力です」。

これは絵と詩が、色即是空 空即是色の関係にあるともいえる。さらにわたしの考察を加えておくと、たとえば日本の漫画には「シーン」という擬態語が時折登場する。シーンは「深」であるとする説がある。実はシーンは無声ではない。「気のせい」が、「何もないせい」ではなく、確かに「気のせい」だといっているのと同じで、そこにはシーン(深)という擬態が存在し、聴覚に働きかけて来るのである。仏教の「空」が空っぽの意ではなく、「苦しみを空(くう)じ、(自らを)開放する」ことであり、道教の「無」が「差異からの開放」であるように、無声は寡黙ではなく、見る者に対して饒舌に働きかけて来るのである。そもそもわれわれは、書は静であると思い込まされているのである。静は同時に動を誘発する。静であろうとすればするほど、動が誘発される。それが書の醍醐味である。

ではどうすれば、「有声・無声」を見て、感じることが可能なのか。それは、意味をいったん封印し、括弧に入れ、まずは全体を俯瞰しながらも、ハネやトメ、打点の高さ、線質、命毛、作者の呼吸に遊ぶことである。その行為は、「解る」ではなく「気づく」を促してくれる。そうして、敢えて声に出しながら、目前の書の造形を自分の心に描いた映像とフォーカスが合うまで、有声化してみることである。すると、自然と無声の意味がこころのなかにするりと入り込んで来るものなのである。書は思った以上に鑑賞者に対しても身体的な藝術なのである。

今回の書展が、デザイン・アートの拠点でもあるCCCという場でおこなわれたことの意味は、まさに書をビジュアルに還元することだったのである。

デニーズ氏は生まれて初めて書に遭ったときのことをこう語る。
「初めて〈書〉に出会った時、無論、文字だと分かりましたが、読めませんでした。それにもかかわらず、私は大変感激しました。字が読めなかったからこそ墨一色世界の無限の豊かさが感じられたかもしれません」という。この評を、筆に持ち替えて書きたくなってきた。

デニーズ・バウムガルトナー氏web http://www.mount-sushi.com/calligraphy/

平野雅彦プロフィール

国立大学法人静岡大学 人文学部 客員教授。言語文化学科「情報意匠論」では、多くの学生プロジェクトをおこし、第28回日本新聞協会賞広告主部門優秀賞受賞。自身も日本新聞協会賞、ACC賞など広告賞多数。執筆多数。

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