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第2回 鹿ん舞とヒーヤイ

更新日時2010.01.22

大井川の中流に徳山という村がある。金谷から出る大井川鉄道に乗れば、駿河徳山という駅で下車ということになる。駅前には商店街もあり、大井川流域では大きな村である。駅を降りてすぐ左手に段丘がある。ここを「森ん段」と地元では呼んでいる。実はこの「森ん段」は、中世にこのあたりを領有した土岐氏の館があったところで、徳山という地名も「土岐の山家」がつまったと考えられている。この土岐氏は南北朝の争乱で南朝方に味方し、北朝方の今川氏と戦う。 この「森ん段」の背後にそびえる無双連山には土岐氏の山城跡があり、攻めくる今川軍と防戦した激戦地だった。城郭研究会の調査では、この無双連山の山城は日本一大きな規模であるらしい。しかし、防戦かなわず、「土岐彦五郎」という総大将は戦死。

森ん段には、「土岐どんの足跡」という伝説の石がある。土岐彦五郎が無双連山の山城をささえきれず、山から飛び降りたところ「森ん段」の館の表門近くにあった石に右足が着地し、足跡が残ったというのである。伝説の石は楕円形をしており、長さが六十センチほど。よくよく見れば、かすかに人の足形らしき窪みがある。今川方に負けたとはいえ、土岐彦五郎という領主の足跡を楕円形の石に託して語り継いできたのである。

鹿の頭を作る 日本では、敗者は怨霊となり祟ると考えてきた。したがって、土岐彦五郎も怨霊となったわけである。この怨霊を鎮めるには、神に祀りあげ歌舞をもって慰めるというやり方がある。実はその怨霊となった土岐彦五郎の面を写すという神楽面が伝わる。川根本町田代の大井神社の神楽で〈殿面〉と呼ばれるもので、お歯黒の仮面である。室町時代までの武将は戦場に赴くにあたり化粧したという。お歯黒もその化粧のひとつである。この殿面と同じ神楽面は、徳山の上の部落青部の熊野神社にも伝わる。いずれも不気味な雰囲気の神楽面である。

徳山には、毎年八月十五日に行われる「鹿ん舞」と「ヒーヤイ」と呼ぶ中世の面影を伝える盆の風流踊りがある。鹿ん舞は、雄鹿一頭、雌鹿二頭を勢子が追うという演出で、鹿役の被り物はいずれも白い頭で、この鹿が神鹿を象徴することを意味する。手には二本の綾棒を持ち、これが前足になる。笛太鼓に合わせて、この綾棒をくるくる回しながら片足ずつのステップで道行し、やがて前足に見立てる綾棒を前に揃えて立ち止ると、左右をゆっくりうかがい、「ソウリャー、ウンハーイ」と叫び、十数メートル疾走する。そしてまたゆっくりとした笛太鼓の音に合わせて綾棒をくるくる回しながらの道行となる。 これは鹿の調伏追放儀礼を芸能化したもので、焼畑に出没する害獣鹿を追い払うためにおこなうものと考えられている。「ヒーヤイ」は、綾棒を採りものに饅頭笠を深々と被る少女たちが、二列踊りと輪踊りを交えた盆の風流踊りで、その歌の中に「ヒーヤイ」という掛け声が入るのでこう呼ばれている。不思議なことに、この鹿ん舞もヒーヤイも、この徳山にしか伝承されていないのだ。民俗芸能は、優れたものはたいてい周辺に分散して伝承されているものなのだが、ここには周辺の村々にその残存すらない。何故だろう。

上級生徒は鹿の頭を被り、本番さながらに舞う この芸能の特徴のひとつ、綾棒を採りものとする点に視点をやると、これは岐阜県や三重県などに広く分布する棒踊りに通じるももので、伊勢踊りもこの綾棒を手に採り踊る。この棒踊りは岐阜に広く分布伝承される。棒踊りを伝承する岐阜県の山間部は、土岐氏の本拠地でもある。おそらく岐阜の土岐一族と徳山の土岐氏と繋がりがあったものと思われる。雅な風流踊り「ヒーヤイ」も、中世に岐阜の土岐氏を通して京の都から伝えられたものと考えられる。だが、徳山の土岐氏は滅亡し、領主だった土岐彦五郎も敗死。それなのにどうして「ヒーヤイ」は残ったのだろう。しかもここ徳山だけに…。これはその後、つまり土岐彦五郎の敗死後、怨霊になったと考えた執政者が、その怨霊を鎮めるために「ヒーヤイ」を奉納してきたと考えるとスッキリする。「鹿ん舞」も、焼畑の害獣を調伏追放する内容と考えられるが、その害をなす鹿は土岐彦五郎の怨霊とも解される。したがって「鹿ん舞」もまた、土岐彦五郎とその一族の怨霊を鎮める芸能だったのではないか。

下級生徒は綾棒の練習にはげむ この徳山にある中川根第一小学校では、総合学習の時間が現在三十五時間あるが、そのうち十時間を「鹿ん舞」の伝習にあてている。地元の伝承者を招き、芸能のいわれや歴史などをまず学習する。そして六年から三年生までの生徒が「舞」と「お囃子」、「鹿頭の製作」に分かれ、それぞれ地元の伝承者の指導のもとに伝習する。低学年は、鹿ん舞のミニチュアを製作する。紙粘土で鹿頭を作り、紙で衣装を切り抜いて作る。採りものの綾棒も作る。

八月十五日の本祭りの「鹿ん舞」は、地元の中学生によって舞納されているのだが、小学校ですでに伝習しているので、舞もお囃子もその伝承は実にスムーズにおこなわれているとのことである。

松本晴巳校長のお話では、この「鹿ん舞」の伝習は、平成十二年からで、地元徳山出身の沢村校長のときに始まったものという。丁度その頃、総合学習というものが立ち上がったこともこの「鹿ん舞」の伝習を押した。

くるくるくるくる綾棒を回す 徳山にある県立川根高校では、二年生の海外修学旅行に、「ヒーヤイ」と「鹿ん舞」を携えて行き、現地の交流高校で披露してきた。しかし、これは継続行事と決めたものではないため、毎年二学年を預かる先生方で採決することになっているそうである。交流高校での披露と決まれば、二学期から総合学習の時間で毎週一回の練習が始まる。今年は台湾へ修学旅行することになっている。しかし、先生方の間には地元という概念に幅があり、これを徳山と限定してよいものか、あるいは大井川流域、いや静岡県とすべきだ。いやいや日本全国へ視野を広げなければと・・、さまざまな意見がある。まあ、そこは、いろいろな意見もあろうから大いに議論していただきたいところだが、やはり地元イコール伝統芸能継承者から直接指導を受けられる範囲とすれば、やはりその伝統芸能、古典芸能は絞られてくるのではないだろうか。私見では、伝統芸能を通して、その土地の歴史や民俗、自然環境も学べるわけで、中世の面影を色濃く残す「ヒーヤイ」や「鹿ん舞」が、土岐氏と深いかかわりがあることは確かであり、地域学習の効力は計り知れないものがある。たとえば、全国にどんな鹿の芸能があるかをこの「鹿ん舞」を入り口にして、東北の「鹿踊り」と四国宇和島の「鹿踊り」に視点を向けてみれば、徳山の「鹿ん舞」が日本の中で固有の芸風があることを知るだろう。

太鼓の稽古 そして何故鹿の芸能が生まれたかを知れば、焼畑農業というものも見えてくるわけである。山村の暮らしを支えた焼畑農業をベースに生まれた芸能、文化が日本文化の一角に横たわっているわけである。その導入部に、この「鹿ん舞」という芸能がきっといざなう力となるはずである。男女共学の川根高校生にしてみると、「ヒーヤイ」の踊りは女生徒が、「鹿ん舞」は男子生徒がという分担もうまくできるわけだ。だが、地元には、ほかにも「徳山神楽」や「田代神楽の駒ん舞」などがあり、いずれも優れた古典芸能で、どれを取り上げてもまちがいなく生徒たちはおおきな地元の力をいただくことになろう。それにしても修学旅行が受身の旅から発信する旅へと進化しているのに驚いた。ぜひ、地元の伝統、古典民俗芸能を身につけて、海外で披露していただきたいものである。その体験は、きっと将来に大きな実りをもたらすはずである。

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