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第4回 鯨突の面影「猿っ子踊り」

更新日時2010.04.16

真っ赤な装束に身を包む猿の鯨突き

安良里 西伊豆町宇久須と安良里には〈猿っ子踊り〉が伝わる。真っ赤な衣装に身を包む子どもたちが鯨突きの所作を演じる。逆立ちになる場面では観客からの拍手と歓声が湧く。

宇久須は、出崎神社の秋の祭礼(十一月三日)に、柴地区の子ども会が主催して、この〈猿っ子踊り〉を披露する。安良里は多爾夜神社(たにやじんじゃ)の秋の祭礼(十一月三日)に、安良里自治会主催により地元の子どもたちにより披露されている。いずれも、西伊豆町立賀茂小学校の生徒がこの〈猿っ子踊り〉の担い手となっている。

安良里の鈴木海志君と航志君の双子の兄弟も小学四年生(平成十九年)の時から六年生(平成二十一年)までの三年務めた。二人は、いつも陽気で、練習でも笑ってばかりいたので、とうとう追い出されたという。それがこの春中学生になるにあたり、今一番の思い出だという。

安良里の〈猿っ子踊り〉は、まず組んだ腕を額にあて、「ヤーハ、ハイヨイ、ヨイヨイヨイ」の囃し声に合せて、少し腰を曲げながら、左から右に、右から左へと身体全体で波を表現する。これが「囃し」と呼ぶ前段。次に、「ハイ」の合図で、右手を額にかざして身体を曲げながら左を眺め、今度は左手を額にかざして右を見る。これを「もの見」という。鯨を探す所作だと伝える。また「ハイ」の合図で、扇子を広げ、両手で持ち、額の前で招く所作を左、右、左、右と行う。「これを、「招き」という。鯨を招く所作と伝える。また「ハイ」の合図で、今度は「逆立ち」して、左足、右足、左足、右足と交互に曲げ、喜びの表現をする。低学年生は、逆立ちがうまく出来なくて足をばたつかせて倒れる子どももいる。鈴木海志君と航志君の双子の兄弟も、四年生の時は、ばたつかせた方だった。ところが、六年生になったときには、立派に舳先で演じて見せた。

最後は銛を手にとり、「ヤーハ、ハイヨイ」の囃しに合せて身体全体を大きく反らして銛を打ち込む構えをし、「ヨイヨイヨイ」の掛け声で三回銛を突き出す。これを「突き棒」と呼ぶ。宇久須の柴地区でも〈猿っ子踊り〉を伝えているが、こちらは、「逆立ち」を銛を打ち込んだ後に行っている。

青年から小学生に委ねられ〈猿っ子踊り〉となる

安良里の宮崎昌さん(昭和七年生まれ)によると、もとは青年が担っていた〈猿踊り〉を子どもたちが担うようになってから〈猿っ子踊り〉と呼ぶようになったのだといわれる。それまでは若い衆が御船と呼ぶ祭り船に乗り込み、港に浮かべてその舳先で青年が猿に扮して踊った。だからその頃は「猿踊り」と呼んでいた。船には片側七丁の櫓、あわせて十四丁の櫓を装備し、漕ぎ手は「櫓手の若い衆」と呼ばれ、その年二十歳になった若者が担当した。櫓手は交際相手から赤い手甲と脚絆、それに肌襦袢を借りて女装した。そして船端を敲きながら馬鹿踊りをしたり櫓を漕いだという。同じ仲間でもっとも品行方正な模範青年が猿踊りを担当した。この役をやると一年間、火の用心の見回りや道掃除などの役を免除されたという。しかし、昭和十年頃にはもう「神明丸」と呼んでいた祭り船が老朽化して廃船となり、そのまま新造することもなく戦争に突入して行き、〈猿踊り〉も自然に中断してしまった。これが戦後すこし落ち着きを取り戻した昭和二十二年に、祭り船を模した船屋台を作って陸引きして〈猿踊り〉を復活させたのだという。まだこのときは青年が祭りの担い手で、〈猿踊り〉役は二十歳の青年から一人選ばれていたという。これが、昭和五十年に青年団が解散したことで〈猿踊り〉は休止。三年後の昭和五十三年に、幼稚園児が〈猿踊り〉を披露する。平成三年の賀茂村文化協会発足二十周年記念による郷土芸能大会発表会の際に、小学校高学年により、〈猿っ子踊り〉と改名されて披露された。

一方、宇久須では、昭和十九年ごろまで、長さ15・6メートル、幅3メートルほどの祭り専用の船があり、神社近くの船納屋に置いていた。祭礼前に青年たちが出して飾りつけをした。黒い漆塗りの舳先を取り付け、屋形を組み、両舷に格子をつけた。船べりには鶴亀を描く垂れ幕をたらした。この船には宿老と青年が乗り込み、御歌を唄いながら、十六丁の櫓を漕いで、朝八時から夕方四時まで、左回りに船をくるくる漕ぎ回した。浜には「オカコゲ」と呼び、ボロをまとい、老婆の役がこっけいな動作で面白おかしく観客を笑わせ、この御船を浜に招くという役があった。途中、浜に三回ほど寄せて蜜柑を撒いた。御歌は「初春」「黄帝」「松揃い」「桜揃い」「小袖揃い」「神揃い」「高砂」「若様」「声直し」などがあった。御歌の歌い手は宿老たちで、六十代のものが六、七人羽織袴の正装で船に乗り込み、砂糖湯を飲みながら一日中唄った。歌に合わせての操船、漕ぎ方があり、「ヤーン」というところで櫓押しの掛け声になった。船を漕ぐのは青年たちで、入会二年目(十六歳)から漕ぎ手になった。青年たちは村娘たちから襦袢を借りてきて褌の上からはおり、白足袋を履き、右足でイタゴを踏み鳴らした。御船が湾内を廻り始めると、真っ赤な衣装に身を包む「猿」が出てきて舳先で踊った。座布団を六枚ほど重ね、その上でさまざまな所作をやって見せた。

安良里の鈴木兄弟最初は身体を振って見せる「振り」。次に、手をかざして前後を見る「もの見」。扇を手に持ち、左右を囃す「囃し」。扇で招く所作の「招き」。突きん棒と呼ぶ棒を持って突くまねをする「突き棒」。最後は逆立ちになって両足を開く「逆立ち」と続く。

扇で招く所作の「招き」は、紀州では鯨を招き寄せる呪術だと伝えている。ここではそういう伝承はないが、「突き棒」が鯨突きの所作と伝のだから、やはり「招き」は鯨を招き寄せる呪術で、この猿踊りは、捕鯨の予祝芸と考えられる。(『静岡県史』資料編23)

宇久須 宇久須でも戦時中に祭り船が老朽化で廃船となり中断したが、戦後昭和二十三年に小型の模型船を曳いて始めた。この時から〈猿っ子踊り〉は、柴地区の小学生が担い手となっている。

イルカの大漁のきっかけになった猿へのお礼がその始まり

ではどうしてここ宇久須と安良里に〈猿踊り〉が伝承されているのだろう。安良里の宮崎昌さんによれば、「むかし、猿が海の方を指してキーキー騒いでたので、なんだろうと山に上って行くと、なんと港口にイルカがいっぱい寄って来ている。そこで、さっそく船を出してイルカの群れを安良里港の中に追い込んで獲った。この大漁をもたらしてくれた猿にお礼をしたくて、猿真似の踊りを船の舳先で踊りながら港を回ったのが、安良里の〈猿っ子踊り〉の始まりだと伝え聞いている」という。

宇久須の郷土史家浅川靖さん(大正十三年生まれ)は、〈猿っ子踊り〉の起源を、(1)徳川家康の江戸城築城に関る石船が、完成記念に隅田川で早船競争をやり、見事伊豆の安良里の船が勝利。その祝に猿踊りを舳先で見せたのが始まり。(2)豊臣水軍の行動を探る北条水軍は祭り船を仕立て、舳先で猿踊りを演じながら偽装して偵察行動したのが始まり。という二説をあげられる。

戸田の鯨突唄は初期沿岸捕鯨を伝える

伊豆半島西海岸の戸田港はタカアシガニの水揚げで全国に知られるが、この戸田に伝わる漁師唄のひとつ祝歌に〈鯨突唄〉がある。

りゅうそうもやいでェー波勝の沖で つちをついたとまねを出す サアツイタカジャウ ツイタカジャウ  ホリャつちのこもちをツイタカジャウ

今度ついたのはェーやそべいが組か四郎左が組か 親もとるとる子もとると サアツイタカジャウ ツイタカジャウ ホリャつちのこもちをツイタカジャウ

土肥の地組でェー追わせておいて 戸田の嵐で吹いてとると サアツイタカジャウ ツイタカジャウ ホリャつちのこもちをツイタカジャウ

〈つち〉は、ツチクジラのこと。〈まね〉は、船上で揚げる信号旗のこと。したがって、「波勝崎の沖で、子持ちのツチクジラを突いたと信号旗を揚げる。今度突いたのは八曽兵衛組か四郎左組か、親もとる子もとると、土肥の地組で追わせておいて、戸田の嵐で吹いてとる」となろうか。この鯨突唄にあわせて「突棒」と呼ぶ踊りをおこなう。大きな銛を手にとり鯨を突く所作をまねる単純素朴な踊りである。

戸田の鯨突き踊り 伊豆沿岸にはまだ捕鯨に関する文書資料が見つからないため、近世には沿岸捕鯨はなかったとされている。したがって、この鯨突唄は、戸田の船名主勝呂家が紀州藩の石船を預かることで紀州から伝わったとされている。しかし、それではどうして戸田や波勝、土肥など地元の地名が歌われているのだろうか。また紀州藩には八曽兵衛組、四郎左組と呼ぶ捕鯨組はなかった。さらに地組という歌詞から、地元の捕鯨組があった可能性もある。

ツチクジラの追い込み捕鯨の可能性

宇久須 ツチクジラは頭がイルカ同様にとがっていて、群れを30から60頭で形成する。群れの中の子クジラを囲むと、親たちは逃げない。そこで、沖で子クジラを囲み、親をひきつけて突くか、そのまま子クジラを囲みながら親も一緒に入り江に追い込んでから突いて獲るという追い込み捕鯨があったのではと、戸田の〈鯨突唄〉は示唆する。捕鯨の盛んな紀州の太地などでは、このツチクジラはイルカの部として評価せず、セミやザトウといった大型鯨を捕鯨の対象とし、沖での網獲り捕鯨に専念した。しかし、その太地でも初期には、ツチクジラをやっと沖で突けたものと思われ、この戸田の鯨突唄は、湾内に追い込む初期の沿岸捕鯨の姿を伝えているのではないだろうか。

さすれば、〈猿っ子踊り〉は、鯨突きの予祝芸能だったことになるのだが。残念ながらいまのところ伊豆の西海岸での捕鯨の記録はない。

それにしても猿は漁師も猟師も獲物が去るといって嫌う。それがなぜに猿の踊りなのか、神野善治氏は、徳川幕府の軍船関船安宅丸の将軍の観閲式に、江戸の役者猿若太夫が舳先で踊りを披露したのがそもそも猿踊りの始まりという。だとしても、踊りは猿の格好であり、これを本当に猿若太夫に重ねたのだろうか。

山の神、母なる源の山の力が豊漁をもたらす

宇久須 安良里の宮崎昌さんが伝える、猿がイルカの大群れを知らせたという伝説に戻し、山の神に仕える猿という視点で考えて見たい。山の神に帰属する山の樹木は海を豊かにするといわれる。つまり、樹木の落ち葉が小動物により分解されて土になる。この土に雨が降り注ぎ、川となり、栄養豊富な川水が海に入る。すると、植物プランクトンがわき、この植物プランクトンを動物プランクトンが食べる。増殖する動物プランクトンを今度は幼魚が食べ、この幼魚が育ち小魚となると今度は大型の魚やイルカなどが集まってくる。猿が沿岸にイルカの群れが来たことを告げたという点は、こういう生態を言っているとも考えられる。神話でも山彦と海彦という話の中で、魚釣りの鈎を山の神に授かるとあり、山の神は海の幸をもたらす、母なる源ということであろう。その山の神の使い猿が、船の舳先で鯨突きを演ずるのだから、山の神、山の力が豊漁をもたらし、大漁満足につながるのであろう。

それにしても、よくぞ鯨突の面影をつたえる〈猿っ子踊り〉という、海の予祝芸を伝えたものである。海洋国日本の一角にあって、この芸能はながく伝えていただきたい。そして海洋国日本の文化の一翼を、地元の子どもたちが担っていることに拍手。

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