第16回 川名ひよんどり
更新日時2015.03.20
若衆の通過儀礼
正月四日の夕方六時半。陽もとっぷりと暮れ、冬の寒さが身に染みる時刻。上半身裸で腰にしめ縄を巻いた若衆が、御堂の入口に立ちはだかる。彼らは「ヒドリ」と呼ばれ、川名の集落に住む血気盛んな若衆で構成される。
そこに「タイトボシ」と呼ばれる大禰宜が、燃え盛る大松明を持って現れ、若衆に向かって右に左にと炎を振りかざす。
若衆とタイトボシの炎のせめぎ合いを一目見ようと、何百人もの見物客が境内に押し寄せ、無数のフラッシュが炎に焦がされる若衆の姿を写し出す。祭りの熱気は、いきなり最高潮を迎える。
「以前は成人を迎えた若者がヒドリの役を務めていました。全身でこの聖なる火の威力を体感した若者たちは、大人の仲間入りを許されるという、一種の通過儀礼でした」そう話してくれたのは、川名ひよんどり保存会の前嶋功会長。前嶋会長は浜松市無形民俗文化財保護団体連絡会の初代会長の職も務める祭りのまとめ役である。
お堂の入口を遮る若衆の間を超えた大松明は、本尊の薬師如来に献上され、それをもって堂内の祭事が粛々と始まる。
奥浜名湖のひよんどり・おくない
現在は国指定重要無形文化財に指定されている川名ひよんどり。この祭りがいつから始まったのか、正確な記録は無い。祭りの行われる福満寺薬師堂は奈良時代の創建という言い伝えもあるが、火災にあい、応永三十三年(一四二六)に再建されている。
そのとき本尊の薬師如来が、井伊家の一門である藤原朝臣直貞によって造営されたと、ひよんどりの詞章に謳われていることから、少なくとも六百年以上の歴史があるのではないかと考えられている。
ところで、引佐町とその周辺の奥浜名湖一帯には「ひよんどり」とか「おくない」と呼ばれる祭りが点在している。
これらの祭りは、民俗学的には「田遊び」と呼ばれ、平安末期から鎌倉時代に全国に広まった。毎年お正月に、集落のお堂で、田植えから稲刈りに至る農作業を模擬的に演じ「今年もこのように順調に稲が成長しますように」と祈る予祝神事である。
また、仏教寺院には、昨年の穢れを払い、新しい年の五穀豊穣や国家安泰を祈る、修二会(修正会)という行事がある。この行事を行うことを「おこない」といい、それが訛って「おくない」と呼ばれるようになり、中でも火を扱う儀式が印象深い祭りを「火踊り」→「ひよんどり」と呼ぶようになったと考えられている。
一方、川名ひよんどりが行われる福満寺薬師堂は、川名の人々から「八日堂」と呼ばれ親しまれてきた。
実は、その他にも、井の国の「ひよんどり」「おくない」の行われるお堂には、正式な寺院名とは別に「三日堂」「五日堂」といった、日にちを被せた通称がある。このことから、ひよんどりやおくないは、村々を順に回りながら、日送りで行われてきたのではないかと推測されている。
世襲の役割と地域の協力
川名ひよんどりは、祭り全体を指揮し、シシウチ、シカウチ、マトウチなどの神事を司る「大禰宜」「小禰宜」と、御堂の内陣で献供の一切を取り仕切る「堂守」などの役割が、世襲で受け継がれてきた。それぞれが神事を進め、神事で使う道具作りなどの特殊な技能も併せて継承されてきた。
「祭りの朝になると、誰に言われるでもなく、みんな自然に集まってきて、それぞれが役割を果たして、滞りなく祭りが進められる。それが川名の特長です」と前嶋会長は話す。 「各演目の舞手は、保存会員や若連、子供たちが務め、特定の神事以外の準備は、近年、川名の集落の全ての家から一人ずつ協力してくれています。川名ひよんどりの元気の源は、多くの人々の協力があるからこそだと思っています」と前嶋会長は続ける。
川名の集落は戸数約百戸。祭りの受付や甘酒の奉仕、駐車場係などの裏方も、保存会や自治会、若連など、集落の多くの人々が協力してくれている。世襲の役と組織の役が上手く噛み合っている様子がうかがえる。
子供たちに伝わる自信と伝統
様々な人々の協力の中でも、子供たちの存在は欠かせないものとなっている。特に「順の舞」や「片剣の舞」「両剣の舞」などは、小学生が演じる演目として受け継がれている。
演じるのは、集落内に住む浜松市立井伊谷小学校の児童。平成二十六年は六年生二人を始め、五年生四人、四年生二人の計八人(男子七人、女子一人)が務めた。
平成二十五年十二月二十九日、旧川名小学校(平成二十一年閉校)で行われた、本番直前の練習を見学させてもらった。上級生はさすがにキレの良い舞いを演じる。下級生も前嶋会長の手本を見て、真剣に稽古をつけていた。
子供たちに「練習は大変ではないか」と尋ねると、六年生の一人、前島絋斗くんは「川名にしかない伝統芸能ですから、きちんと演じたい」と話し、もう一人の六年生、前島隼斗くんも「川名ひよんどりは歴史的な文化財。剣の舞を舞うのは今年が最後だから、しっかりやりたいです」と、驚くほど自信に満ちたコメントが帰って来た。
彼らは、昨年の八月も、東京で行われた全国こども民俗芸能大会に出場するなど、様々な場で舞いを披露してきた。子供たちの言葉も、このような数々の経験から生まれてきたものだろうと推測する。
今年、順の舞や剣の舞を舞った子供たちは、二十歳になればヒドリとして大松明の炎に焦がされる。そして祖父から父へ、さらに子へと受け継がれ、ある者はおんばの舞や獅子の舞など、巧妙な大人の舞を舞うようになるだろう。
そして何十年後には、シシウチやシカウチ神事を行う大禰宜、小禰宜に。あるいは内陣に入って薬師如来を祀る堂守として、この貴重な伝統文化を、しっかり引き継いでいってくれるに違いない。子供たちの自信に満ちた言葉から、そう確信する川名ひよんどりである。



(レポート 鈴木一記)